stray woman

世界から、はぐれて生きる暮らし方

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author:るんた

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句読点

このブログを始めて18ヶ月。
最初からおつきあいいただいた方も、
途中から合流された方も、
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

書いている間に、古い物語が閉じ、
新しい物語が開いていきました。

私にとっては「幕間」の闇の中、
手探りで進むような時間でした。

かつて着ていた古い衣(ころも)を脱ぎ捨てて、
できるだけ多くを感じようと試みて、
痛みの波も、喜びの波も、ざぶざぶと浴びました。

どこに向かっているのか、さっぱりわかりませんでした。
情動は激しく揺れ動き、
体への影響もけっこうなものでした。
でも、不思議なことに恐れはありませんでした。

もともとこのブログは、
どうしても世界から「はぐれて」しまう、という
やっかいな生き方しかできない人に向けて、
この世をサバイバルするための視点を、
少しでもお伝えできれば、と始めたものです。
お役に立てたかどうか、わかりません。

痛いけれど、怖くない。
見えないけれど、感じられる。
雲の上には、いつも太陽と月がある。
嵐の後の空気は、かぐわしい。
葉は落ちて養分となり、新しい芽が吹いてゆく。
命ある限り、体内では新しい細胞が生まれ続ける。
あらゆるものがつながり、流れている。

そんなことを、ちょっとはお伝えできたでしょうか。

とりあえずの句読点を、
ここで打ちたいと思います。

ひょっとしたらまだ、
誰かの役に立つことがあるかもしれないので、
日常の記録を除いたテキストは、
しばらくここに置いておこうと思います。

ここから先は、書くかもしれないし、
書かないかもしれません。

ま、いい加減な性分の私のこと、
そのうち、ひょっこり出てきたりするでしょう。

いずれにしても、またすぐに、
どこかの「はっしこ」でお会いしましょう。

hasta luego amigos/as.


『狼と駈ける女たち』- C・ エステス

私はよく「シンクロする」という言葉を使います。
自分のこの特質によって、
ぶんぶん振り回されたりもするのですが、
何かが瞬時にわかる(ことがある)という恩恵もあります。

この感覚をいったいどのようにとらえればいいのか、
物心ついて以来、思案してきたものです。
霊感のある人や霊能者と呼ばれる人々とは、
どうも違う感じなんですよね。

『狼と駈ける女たち』という本を再読していたら、
ぽんとひざを叩きたくなるような記述がありました。

そうか、「皮膚のない者」だったのか。

自分で納得していればいいようなものですが、
ひょっとしたら世の中には私と同じような特質を持っていて、
それなりに難儀している人もいるかもしれない。
ということで、ちょっとだけご紹介しておきます。

メキシコでは、魂に、
その人の生きてきた物語が入れ墨のように刻み込まれる、
と考えられているそうです。

人の魂に書かれたこのわずかな徴(しるし)を読み取り、
そこに見出されたものの展開を見る、
という特質を生まれつき持っている人がいて、
そのような人を「皮膚のない者」と呼ぶそうです。
とても深く多くを感じる者です。

メキシコの伝統では、このような者を、
「種の人」とも読んで、物語を使った治療者となるよう、
幼い頃から厳しい訓練をしたそうです。
生半可な感覚で生きると、大きな危険が伴うからです。
やはり本当は、そういうものが必要なんでしょうね。
残念ながら、私自身はリアリティと体当たりしながら、
学んでくることしかできませんでしたが。

メキシコ系ユング派の精神分析医である著者はまた、
次のように解説しています。(以下引用)

 ユング派の中でこれは
 (文化人類学者レヴィ・ブリュールの用語を借りると)
 「神秘的関与」と呼ばれ、
 以下のような関係を指すのに用いられています。
 すなわち、そこにおいて「見たものとかその対象などから
 自分自身を切り離して認識することができない」関係と。
 フロイト派では、「投影的同一視」と呼びます。
 文化人類学者たちは、「共感呪術」と呼びます。
 これらの用語はすべて、しばらくの間自我からとび出し、
 もう一つの現実に溶け込んでいく精神の能力を意味します。
 すなわち把握する別の方法、理解する他のやり方です。
 わたしの伝統における癒やし手たちの中では、
 これは祈りを込め、または通常ではない精神状態によって
 思考を体験し学習することを意味し、
 そしてこの状況で獲得した洞察や知識を
 共感的現実にふたたびもどすことなのです。


彼女の解釈が(学問的に)正しいかどうかはともかく、
個人的な印象としては、かなり附に落ちる感じ。

興味を持たれた方は、ぜひ本をお読みください。
あ、この部分に関係なく、たぶんすべての女性にとって、
非常に興味深い内容が書かれている本だと思います。
女の野生を呼び戻す物語を、世界中から集めています。
残念ながら、新刊では入手困難なようですが、
人生の様々な局面で、折りに触れて開きたくなる、
ずっしりとした重みを持つ本です。


『狼と駈ける女たち』(おおかみとかけるおんなたち)
 「野性の女」元型の神話と物語
 クラリッサ・ピンコラ・エステス 新潮社

ジンギ4

人間、いつでも馬鹿なことを繰り返して生きています。
それはそれでいいんですよね。
でも、時たま、それだけはやっちゃだめなんだよ、
ということをやっちまうことがあります。

自分に対して敬意を持って接してくれた人に対して、
軽んじたり、裏切るような行為をしたら、
必ず、自分の中の何かを損ないます。
それを回復するのは、ものすごくたいへんです。

反射的にそうしてしまうのは、たぶん、育ってくる過程で、
周囲の人たちから、攻撃されたり、貶められたり、
搾取されたり、という体験をしてきたからかもしれません。
でも、自分に対して敬意を持って接してくれるような人、
人生の中で、いったい何人に会えるでしょうか。
そこのところを間違えないために、
「ジンギ」という構図は存在しているのだと思います。


私は誰かから「ジンギ」を教わったわけではありません。
なんとなく感じていたことと、現実に起こった体験から、
こういう考えにまとまってきたように思います。

「ジンギ」の源流を辿ってみると、
やはり、孔子の儒教にそのソースがあるように感じます。
「仁」は思いやり、真心、勇気。
「義」は不善を恥じる心。

普通の庶民が、いかに間違いを起こさずに生きるか、
というプラクティカルな思想が、孔子の教えるところでした。
「鬼神は敬してこれを遠ざく」と言ったように。
以前にも書きましたが、孔子はシャーマンの一族から出た人です。
彼自身は、きっと鬼神も見ていたことでしょう。

さて、一番最初に、「ジンギ」とは、
ハンパ者が、理不尽な世界を生きのびるための
プラクティカルな方便、と言いました。

そう、これは「方便」です。
「方便」とは、目的のために利用する便宜的な手だて。
つまり、本当の核心は、別のところにある、
ということになります。
禅のお坊さんの臨済は、
「仏に会ったら仏を殺せ」なんて言っているぐらいです。
たしかに、そういうものなんだろうと思います。

だから、ハンパ者のためのプラクティカルな方便…。

ここまで読んでいただいて、こんな結論ですみません。
やっぱり、うまく説明できなかった。


ジンギ3

「ジンギ」は「スジ」と関係しています。
流れのようなもの、というか、固有の質のようなもの。

自分が関わるコトの流れが、どういうスジのもので、
どんな質があるか、というのは、
想像以上に大きな影響を人に与えます。
人はそれぞれ、個性や能力を持っていますが、
それが現実の中でどう活かされるか、というのは、
その人がどんな流れの中にあるか、
という質に因るところが大きいような気がします。

自分の質を変える、というのは、たいへんなことです。
住み慣れた水域から、別の水域へ移るようなものです。
体の細胞ごと変化させる必要があります。

外に出ようとしても、目に見えない壁に阻まれて、
身動きが取れないということが起こるのは、
それまでいた所の「質」が、
繭のようにその人を包みこんでいるからだという気がします。

それまでいた流れを外れて、
別の流れに乗ることを選ぶのは、
ある意味で、命がけの行為です。
潮流と潮流がぶつかり合う場所で、渦に巻き込まれて、
もみくちゃにされること必至です。

そういうカオスのような状況で、非力な人を守るのが、
「ジンギ」だと思うのですよね。

事象として見えているものの後ろには、流れがあります。
それは誰かが命がけで探ってきたものかもしれない。
長い時間をかけて人から人へと引き継がれてきたものかもしれない。
人間を超えた大きな流れかもしれない。
気配としか感じられないかもしれないけれど、
それならばなおさら、敬意というものが必要です。

昔は、徒弟制度とか、親分子分とか、得度とか、
問答無用で、「自分の存在すべてを預ける」という
シンプルな関係性がありました。
自由と公平性を謳う民主主義の現代では、
なかなかそういう関係性は成立しにくいですね。

それに同じように見える関係性でも、
「ジンギ」の本質とは違うものもいくつかあります。
恐怖による支配と依存の関係は、
一見、「ジンギ」と似ていますけれど、
それがもたらすのは、まったく別のリアリティです。

「ジンギ」は、自ら進んで、何かを差し出す、
あるいは引き受ける、心の態度です。
その中にあるのは、敬意や誠意であって、
恐怖や不安の成分は含まれていないのです。


ジンギ2

「ジンギ」は、何かを受け取る時から始まります。

何かを差し出された時、たぶん、そのことの重さを、
本当には気づいていない人が多いような気がします。

どんなコトにもモノにも、光と闇、陰と陽、
さまざまな要素が含まれています。
だから、すばらしいものを受け取るなら、
相応の覚悟が必要ということになります。

器量というものも関わってきます。
自分の器量を超えたものを受け取ってしまったら、
一時的には喜びがあったとしても、
いつか苦しみが生じる、と私は認識しています。
もちろん、それを覚悟の上で手を伸ばすなら、
それはそれで、ひとつの生き方です。

でも、今の時代は多くの人が、そんな覚悟もないまま、
良いものをたくさん獲得するのが幸福、という価値観を
社会から植え付けられて生きている気がします。
目の前に、金の斧、銀の斧、鉄の斧が差し出されたら、
つい、金の斧を取りたくなるように条件付けられている。
木を切るなら、鉄の斧が必要なのに。

いったん何かを受け取ったら、
それに応えるのが「ジンギ」というものです。
かわりに何かを差し出さなくてはなりません。
「ジンギ」は正しさではないので、時に理不尽なこともあります。
でも、自分自身を損なっていくような魂の危機から、
その人を守るような構図があるようにも感じます。


ジンギ1

今日は、ちょっと古くさい感じのお話です。
「仁義」というものについて。
私が関係性において、けっこう重要だと感じているのが、
この「仁義」の感覚です。

その感覚を表す、ちょうどいい言葉が見つからなくて、
近いものを探すと、なぜかヤクザ言葉になってしまう。
一般的な言葉と区別するために、ここでは、
「ジンギ」とカタカナにしておきましょう。

実を言うと、「ジンギ」を人に説明しようとして、
うまくいった試しがありません。
だから、今回も、できるだけ努めてみますが、
やっぱり本質をするりと逃がしてしまうかもしれません。
読まれる方は、考えるきっかけ、ぐらいの感じで、
受け取っていただければと思います。


「ジンギ」とは、
ハンパ者が、理不尽な世界を生きのびるための
プラクティカルな方便、だと私は思っています。

自分が認知できる領域に限界があることを認め、
大きな流れに敬意を持つ。
自分は一歩退く感覚、というか。

まあ、単純に言ってしまえば、
受けた恩を忘れない、とか、
スジを通す、とか、
そういうことなんですけど。
道徳的な「正しさ」ではない、という感覚が、
「ジンギ」のミソです。
だから、「ハンパ者のための方便」なんです。

少し前に、「品格」という言葉がはやりました。
私には、社会的な集団が持つ「正しさ」の匂いがしました。
そういうものからは、どうしても、はぐれたくなる。(笑)

社会の正しさからはぐれた時に、
非力な人間はどうすればよいでしょう。
「ジンギ」の感覚を優先する人は、
狂気と背中合わせのような状況の中でも、
生き延びる確立が高くなる、(絶対とは言いません)
というのが私の認識です。


いっぺんには書けそうにないので、
ちょっとずつ進めていこうと思います。


甘酒

20090302.jpg

あっという間に2月が過ぎ、気がつけば3月。
まだ風が冷たいですね。

養分、養分、とつぶやいていたら、
思い浮かんだのは甘酒でした。
さっそく、日本が生んだ最高の、
天然ビタミン・ミネラル飲料を飲みました。
体が温まるように、生姜も少しいれました。

甘酒には、すべての必須アミノ酸、パントテン酸、
ビタミンB1 、ビタミンB2、ビタミンB6が、
含まれているそう。
病院の点滴と同じ成分だとか。
それなら、天然の方がだんぜんいいですよね。
ちゃんと作られたものは、
砂糖が入っていないのに、じゅうぶん甘い。

江戸時代は暑気払いのため、夏に飲んだようです。
でも、やはり冬の甘酒は格別です。
みなさんも、「養分」が必要な時は、ぜひ甘酒を!


さて、ついでですが、
私は、発酵系の食べ物、飲み物が好きです。
納豆、漬け物、塩辛、鮨、くさや、味噌、醤油、酢、
チーズ、ヨーグルト、ピクルス、ビネガー、
ザワークラウト、ナンプラー、豆腐よう、
プーアール茶、アップルタイザー、などなど。
東京農大の小泉武夫先生を尊敬してます。

世界の異臭料理(?)として有名な
シュールストレミング、ホンオフェ、キビヤックは、
まだ試す機会がありませんが、
目の前に出されたら、必ず口に入れるつもりです。

でも残念ながら、体質的にお酒が飲めません。
おつまみ系の食べ物は好物なのになあ。
夕方、蕎麦屋で一杯、なんてことをしてみたかった。
でも、飲めたらアル中になってる気もするので、
まあよかったのかもしれません。


風は冷たいけれど、光が少し春めいてきた感じ。
あともう少し、ですね。

20090302b.jpg

歯が動く

いろいろな種類のことが同時に起こっている日々です。
ちょっと足下がふわふわしているというか、
頭が落ち着かないというか、
北極のシロクマも、春になるとこんな感じになるのだろうか。
固く覆われていた氷が動き出すような。

体っておもしろいものです。
自分の状況を象徴的に表す症状が出てきます。
あ、状況が動いていくな、と思っていたら、
歯が動き出しました。
(歯がぐらぐらするとかではなく、口の中が全体的に動く感じ…。)
どたばたしている時に限って、
そういうことになるのです。

大きな不具合があるわけではないけれど、
そういう時期なのだからこの際、と思って、
歯医者に行くことにしました。

私は基本的に、病院に行かないし、薬を飲みません。
何がどうあっても、というほどの固い決意はないのですが、
病院というシステムよりも、身体というシステムの方が、
信頼できると思っています。
まあしかし、歯医者だけは行くことにしています。

どうして人間の歯は、繰り返し生えてこないのだろう。
鮫がうらやましいです。

歯をいじられると、これがまた確実に、
心や体に影響しますね。
歯の神経は、脳につながっている、ということが
如実にわかります。

なんだか外からも中からも、動いている。
そういう感じがしています。


突拍子

私には妙な癖があります。

突拍子もないことには、
無条件に「いいよ」と言ってしまうのです。

突然だったり、常識をはずれていたり、
無謀だったり、奇想天外だったりすることほど、
すぐに「うん」と反応している。
そのような条件反射が体の中にできている。

小さなことには、逡巡したり、慎重になったりするのに。

自分の意図を超えて、
何かが開かれていく感じが好きなのかもしれません。

もはや、特別な幸運を求める気持ちはないので、
考えてみれば、ハイリスク・ローリターンな態度だなあ。
でもすでに、この世のすばらしいものを、
たくさん受け取っている気もするしなあ。

突拍子って言葉も、おもしろくて好きです。

養分を与える

以前書いた、「のろい」を解くための3つの呪文。

ジャッジしない
コントロールしない
被害者にならない

もともとの動く方向性や意図を、
「しない」ことによって止めるという呪文です。
そうすれば何かが流れ出す。
それは今でもその通りと思っています。

でも、やっぱり「しない」ことをするのはむずかしい。
なかなか自分をその状態にとどめておくことができません。
だから、何か「する」ことがあった方が、
動いていきやすいかなと思いました。
でも、力の欲求にそったことでは意味がないので、
そうではない「する」を考えてみました。

「愛する」というのが一番もっともらしい言葉ですが、
これはかえって難しすぎる。

「聴く」というのは、かなりよさそう。

もう一歩踏み込んで、
「養分を与える」なんてどうでしょう。

欠落したもの、傷んだもの、未熟なもの、に対して、
責めたり、嫌ったりしないで、
ただ、「養分を与える」。
それ以上でも、以下でもなく。

「育てる」って言っちゃうと、
力の匂いが少しする。
だから、ただ養分を与えてみる。
後は、そのものにお任せして。

すりかえたり、ごまかしたり、
にならないように、しなくてはいけないけれど。


 
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